産業医や人事担当者の実務において、「産業医意見書」の作成と取り扱いは非常に重要な業務です。近年では、業務効率化のために便利なテンプレート(ひな形)が多く出回るようになりました。しかし、「テンプレートを使ったからといって、産業医意見書の運用がうまくいくわけではない」という事実は、実務に携わる方々が必ず頭に入れておくべきポイントです。
テンプレートはあくまで「枠組み」に過ぎず、万能ではありません。
産業医意見書の運用において最も危険なのは、機微な健康情報を取り扱うがゆえの「情報に関わる事故(情報漏洩や不適切な共有によるプライバシー侵害)」です。
このような情報事故を防ぐ鍵は、事前の「運用設計」にあります。あらかじめ社内で意見書の運用ルールを明確に定めておくことが、無用なトラブルを回避し、従業員が安心して働ける環境を守る最大のコツです。
本記事では、厚生労働省のガイドラインや産業保健の基本的な考え方に基づき、人事担当者や初心者産業医の皆様に向けて、意見書運用を始める前に決めておくべき「3つの鉄則」を分かりやすく解説します。
産業医意見書における「テンプレート」の限界と運用設計の重要性

産業医意見書(就業上の措置に関する意見書)は、労働安全衛生法に基づき、従業員の健康状態に応じて事業者が適切な配慮(就業制限や休業など)を行うための重要な根拠となる文書です。
テンプレートを使用すること自体は、記載漏れを防ぎ、書式を統一するという点で非常に有効です。しかし、テンプレートに頼りきりになり、「運用(誰が・誰に・どのように共有し・どう保管するか)」のルールが欠落していると、重大なトラブルを引き起こします。
例えば、従業員の詳細な病名やプライベートな事情が記された意見書が、テンプレートに沿って作成された後、そのままの形で直属の上司や同僚の目に触れてしまったらどうなるでしょうか。
これは重大なプライバシー侵害であり、労働安全衛生法や個人情報保護法、さらには厚生労働省の「労働者の心身の状態に関する情報の適正な取扱いのために事業者が講ずべき措置に関する指針」にも抵触する恐れがあります。

ルール① 誰に渡すか? ——リスクを回避する「2枚運用」の標準化

意見書の運用において最初に見直すべきは、「作成した意見書を誰に渡すのか」というルートの設計です。
「同じ文書をそのまま職場に回す」はリスクが高い
多くの企業で陥りがちな失敗が、産業医が作成し人事(または衛生管理者)に提出した意見書の原本(コピー)を、そのまま対象者の配属先である現場の管理職(職場)に回覧してしまうケースです。
人事部門には、労務管理上の決定を下すために、ある程度詳細な医学的情報や背景事情(休職の経緯など)が共有されることが許容される場合があります。しかし、現場の管理職にとってそれらの情報は「ノイズ」になるばかりか、偏見や不適切な取り扱いを生む原因となり得ます。
解決策:「人事用」と「職場用」の2枚運用を標準にする
このリスクを回避するために強く推奨されるのが「2枚運用」です。対象者1人につき、目的に応じて情報量を調整した2種類の文書を作成(または情報を切り分け)します。
- 人事部門向け(詳細版): 労務管理(休職・復職の判定、異動の検討など)の意思決定に必要な背景情報、産業医の医学的な見立て、今後の見通しなどを記載します。
- 現場の職場・管理職向け(簡易版・指示書): 現場が実行すべき「具体的な配慮事項(残業制限、出張制限など)」と「その期限」のみを記載します。医学的な詳細情報は削ぎ落とします。
このように、情報の受け手によって渡す文書を明確に分けるルールを作ることで、過剰な情報共有による事故を物理的に防ぐことができます。

ルール② どこまで共有するか? ——「必要最小限」の原則と要配慮個人情報
2枚運用を行う上で、次に重要になるのが「情報をどこまで共有するか」という線引きです。ここでは「必要最小限の原則」を徹底する必要があります。
職場が必要なのは「配慮」と「期限」だけ
現場の管理職や同僚が知るべきは、「その従業員がどのような病気なのか」ではありません。
「本人が安全に働くために、職場でどのようなサポートや業務上の制限(配慮)が必要で、それはいつまで続くのか(期限)」という実務的なアクションのみです。
- 共有すべき情報の例: 「当面の間、時間外労働は禁止とする」「〇月末までは、出張や深夜業務を控えること」「定期的な通院のため、週に1回の早退を認めること」など。
病名・検査値・家庭事情は職場に「不要」

一方で、具体的な病名(特にメンタルヘルス不調に関わるもの)、詳細な検査値、あるいは不調の原因となった個人的・家庭的な事情などは、現場への共有は不要であることがほとんどです。
これらの情報を不用意に共有してしまうと、以下のような深刻な問題を引き起こします。
- 要配慮個人情報の不適切な取り扱い: 病歴や健康診断の異常所見などは、個人情報保護法における「要配慮個人情報」に該当します。これらを本人の同意なく第三者(現場の上司など)に提供することは原則として禁止されています。
- 従業員への不利益取り扱いのリスク: 「うつ病」「適応障害」といった病名だけが一人歩きすると、現場での偏見を生み、「重要な仕事を任せない」「不当な評価を下す」といった不利益な取り扱いに繋がる恐れがあります。
厚生労働省のガイドラインでも、健康情報の共有は「就業上の措置を実施するため必要な範囲に限定」することが求められています。情報を共有する際は、「本当にこの情報が、この従業員の配慮のために現場で必要なのか?」を常に問い直す運用ルールを徹底しましょう。
また、健康情報を共有する範囲については、必ず事前に本人の同意を得るプロセスを組み込むことが不可欠です。
ルール③ どこに残すか? ——後で見返すための「記録(履歴)」のルール化

産業医意見書は、その場限りの連絡帳ではありません。後から「いつ、誰が、どのような判断を下したのか」を証明するための重要な「記録(履歴)」としての側面を持っています。
意見書は後で「必ず」見返される
例えば、従業員の体調が再び悪化した場合や、労使間のトラブル(安全配慮義務違反を問われる訴訟など)に発展した場合、過去の産業医意見書が「会社として適切な措置を講じていたか」を証明する重要な証拠となります。そのため、「作成して終わり」ではなく、適切に履歴を管理・保管するルールが必要です。
最低限記録すべき5つの必須項目
意見書を管理する際は、文書そのものに以下の項目を明記し、かつデータベース上で検索・確認できるようにルール化しましょう。
- 版(ver・バージョン): 状態の変化に応じて意見書が修正される場合があります。「ver1.0」「ver1.1」あるいは「第〇報」といった形で、どの時点での最新情報かが一目で分かるようにします。
- 送付先: この意見書(または指示書)を「誰に(人事の〇〇、営業部部長の〇〇など)」共有したのかを明確にします。
- 送付日(作成日): いつの情報・指示であるかを特定するために必須です。
- 措置期限: 残業制限などの配慮を「いつまで」行うのか。期限が曖昧だと、現場の負担が永続化したり、本人のキャリア形成の妨げになったりします。
- 見直し日(次回評価日): 期限が切れる前に、「次にいつ産業医面談を行い、措置の継続・解除を判断するか」の予定日を記載します。これにより、措置の放置を防ぐことができます。
これらの項目をテンプレートのヘッダーやフッターに組み込み、運用フローの中で「記入漏れがないか」をチェックする体制を整えることが、トラブルに強い運用設計へと繋がります。
まとめ:情報事故を防ぐ運用設計こそが、全員を守る
産業医意見書の運用において、テンプレートは業務を助けてくれる素晴らしいツールですが、それはあくまで「運用ルール」という強固な土台の上に成り立ってこそ活きるものです。
- 誰に渡すか: 「2枚運用」で人事と現場の情報を分ける。
- どこまで共有するか: 現場には「配慮」と「期限」だけを伝え、病名などの要配慮個人情報は伏せる(必要最小限の原則)。
- どこに残すか: 版・送付先・送付日・措置期限・見直し日の5項目を徹底して記録し、履歴を管理する。
これらのルールをあらかじめ人事、産業医、そして経営層の間で共有し、明文化しておくことが重要です。適切な情報管理と運用設計は、情報事故を防ぐだけでなく、従業員が安心して療養や復職に取り組める心理的安全性の高い職場づくりに直結します。
まずは自社の現在の意見書の取り扱いフローを見直し、上記の3つのポイントが守られているか、ぜひチェックしてみてください。


