近年、人事・労務領域のDX化が急速に進む中、「産業医面談や保健指導にAI文字起こしツールを導入できないか」というご相談をいただく事業所が非常に増えています。
結論から申し上げますと、AI文字起こしの導入は、面談の質を劇的に向上させ、事業所(企業)の休職・退職リスクを未然に防ぐ強力な武器になります。
記録作成にかかる時間を削減し、人事へのスピーディな情報連携を可能にするだけでなく、企業が「安全配慮義務」を果たすための正確なエビデンスを残すことにも直結するからです。
本記事では、現役産業医の視点から、AI文字起こしツールが事業所と医療職の双方にもたらすメリット、そして情報管理(保存・セキュリティ)における重大な注意点までを徹底解説します。

産業医面談にAI文字起こしを導入する3つの絶大なメリット
まずは、AIツールが産業保健の現場と企業経営にどのようなポジティブな変化をもたらすのか、具体的に見ていきましょう。
① 最大の価値:「顔を見てしっかりと話を聴く」ことに100%集中できる

私が産業医として最も大きなメリットだと感じているのが、この点です。
従来の面談では、正確な記録を残すためにどうしてもPCの画面に目を落とし、タイピングしながら話を聞く時間が生まれてしまっていました。しかし、メンタル不調を抱える従業員との面談において、これは致命的になり得ます。画面ばかり見ている面談者に対して、従業員は心を開いてくれません。
AIが自動で高精度な記録を行ってくれれば、医師や保健師はPCから完全に手を離し、対象者の「顔を見てしっかりと話を聴く」ことに全神経を集中できます。 視線の泳ぎ、わずかな表情の曇り、声のトーンといった「非言語情報(ノンバーバル・コミュニケーション)」を逃さずキャッチできるだけでなく、従業員側にも「会社(産業医)が自分の話を真剣に受け止めてくれている」という強い安心感と信頼感をもたらします。
② 圧倒的な業務効率化と「事業所への超迅速なフィードバック」

通常、30分の面談記録を後からカルテや報告書としてまとめるには、10〜15分程度の時間を要します。1日に何件も面談が立て込むと、記録作業が夜にずれ込み、人事への報告が翌日以降になることも珍しくありません。
AI文字起こしがあれば、面談終了と同時に会話のベースがテキスト化・要約されています。医師は要点を少し修正するだけで報告書を完成させられます。 この「報告のスピードアップ」は事業所にとって最大の価値です。人事・労務担当者へその日のうちに迅速なフィードバックが可能になり、残業規制や業務軽減、休職手配などの「早期の就業措置」に直結するため、症状の悪化や突発的な退職リスクを最小限に抑えることができます。
③ 面談の質を底上げするAIの「サジェスト(提案)機能」
最新のAIツールには、単なる文字起こしにとどまらず、リアルタイムで面談の進行をサポートする「サジェスト機能」が搭載され始めています。
- 質問のサジェスト: 面談者が「最近、朝早く目が覚めてしまって…」と発言すると、AIが画面上に「睡眠障害(早朝覚醒)の疑い。日中の眠気や食欲についても深掘りしてください」とヒントを出してくれます。
- リスクのサジェスト: 発言内容から、抑うつ傾向や過重労働、ハラスメントのレッドフラグ(危険信号)をAIが検知し、見落としを防ぎます。
- 目的に応じた要約: 終了と同時に「人事報告用(業務に関する要点)」「医療職用(詳細な症状経過)」など、用途別にAIが自動要約を作成します。
これにより、経験の浅い産業保健スタッフでもベテランに近い多角的な視点でヒアリングができ、事業所全体で提供する面談の「質の均質化」が図れます。
無視できないデメリットと「個人情報」の壁
一方で、企業が導入に踏み切る前に、法務・情報システム部門も交えて絶対にクリアにしておくべきリスクが存在します。
① 「個人情報の保存」に関する重大なセキュリティリスク
産業医面談で扱われる病歴やメンタルヘルスの状態は、個人情報保護法における**「要配慮個人情報」**に該当します。これを安易に外部のAIツールに読み込ませることは、企業にとって甚大なコンプライアンス違反リスクとなります。
- AIの学習データへの利用リスク: 無料のAIツールや初期設定のままのクラウドサービスでは、入力した音声やテキストデータが「AI自身の学習」に使われてしまう可能性があります。自社の機微情報が、他社のAI回答に漏洩するリスクは絶対に避けなければなりません。
- データの保存場所(サーバー)の問題: データが海外のサーバーに保存される場合、日本の法律の管轄外になる懸念があります。
【必須の対策】 事業所としてツールを導入する際は、以下の条件を満たす法人・医療機関向けのセキュアなツールを厳選する必要があります。
- 学習利用のオプトアウト機能(入力データがAIの学習に利用されない設定)が確約されていること。
- データ通信および保存が強固に暗号化されていること。
- 国内のセキュアなサーバー(ISMS取得など)でデータが保管・一定期間後に自動消去される仕組みがあること。
② 感情の機微や「重たい沈黙」は文字にならない
AIは言葉を正確に拾うことには長けていますが、「深いため息」「言い淀み」「涙ぐむ様子」そして「重たい沈黙」をテキストに落とし込むことはまだ苦手です。
メンタルヘルス面談では、言葉以上にこうした「間」に重要な意味が含まれています。文字起こしされた綺麗なテキストだけを人事が読んで「大したことはなさそうだ」と判断してしまうと、本人の深刻度を見誤る危険性があります。テキストはあくまで補助であり、最終的な「状態の評価」は必ず面談をした医療職の所見を優先する必要があります。
③ 専門用語・社内スラングの誤変換と「事前の同意」の手間
医療用語(例:「SSRI」「適応障害」「希死念慮」など)や、その企業特有の部署名・略語などは、AIが誤変換してしまうことが多々あります。そのまま会社へ報告書として提出してしまうと、事実誤認に繋がるため、最終的な「人間の目によるチェック」は依然として不可欠です。
また、録音やAIによる文字起こしを行う際は、面談の冒頭で必ず従業員本人に「目的(記録の正確性向上のため)」と「情報の取り扱い」を説明し、同意を得る手間が発生します。「録音されると本音が話しづらい」と拒否された場合は、従来通り手書きやタイピングで対応する柔軟性も求められます。
まとめ:AIは「温かい面談」と「強い組織づくり」の黒子である
AI文字起こしツールを導入する真の目的は、単にタイピングの手間を省くことではありません。
「効率化した時間を、目の前の従業員と向き合う温かいコミュニケーションに再投資すること」。
そして、「精緻な記録をスピーディに事業所と連携し、従業員が健康に働き続けられる強い組織を作ること」にあります。
厳重な個人情報・データ保存のルール(学習利用の禁止・国内サーバーなど)を敷いた上で、AIを「優秀な書記兼アシスタント」として活用する。そして、私たち人間は「顔を見てしっかりと話を聴く」という、人間にしかできないケアと判断に集中する。
これこそが、事業所にとっても従業員にとっても価値のある、これからの産業保健の最適解と言えるでしょう。


